ルーヴル美術館は予約しないと行列になるので、出発前にHPで入館日時を予約。パリミュージアム・パスと予約時刻入りの入館証を印刷。
手前の列は、入館時刻を予約した人達の荷物チェックで、ドンドン進む。
奥の長蛇の列は、当日券。大変だ。
奥の建物はドゥノン翼で、モナ・リザなどフランスの絵画がある。
年間800万人以上が訪れる美術館で、毎日の入館者は2万人以上。
建物は、中央のピラミッドからみて、北側がリシュリュー翼、東側がシュリー翼、南側がドゥノン翼。
正面のシュリー翼から中に入る。内部は、とてつもなく広い。
メソポタミア文明
ハンムラビ法典 Code de Hammurabi 紀元前1792年 - 紀元前1750年
バビロニア(現在のイラク南部)を統治したハンムラビ王が建てた玄武岩の石碑。
表面に何千もの文字が刻まれ、家族や奴隷、農業、商業、行政、婚姻・相続など判決のリストで、聖書の律法よりも古い法律文書。
「男が...自由人の目をえぐり出すと、その目はえぐり出される。もし誰かが自由人の歯を折れば、その人の歯の一本が折れるであろう。これは、聖書の後半に出てくる「目には目を、歯には歯を」と同じで、過度な報復を防ぐ意味もあるとのこと。
1901年から1902年、フランスの考古学者が、イランの南西部にあるエラムの古都スーサで発見。
ラマッス(雄牛:両頭症、翼、ペンダントイヤリング) Lamassu (taureau : androcéphale, aile, boucle d'oreille à pendant) 紀元前721~紀元前705年 (右側)
人間の頭を持つ翼のある雄牛は、サルゴン8世の宮殿の入り口を守る守護霊。アッシリア帝国のサルゴン2世は、首都をドゥル・シャルキン(現在のイラク北部)に移し、巨大な宮殿を建てた。 フランスの考古学者ポール・エミール・ボッタが、1844年に王宮を発掘調査で発見。
大英博物館にもアッシリアの壁面レリーフがあったが、発見はフランスが6年早く、展示物は英国が160年古い。
巻き毛のヒーロー(あごひげ、チュニック:ショート、スパイラルブレスレット:2、ロゼットブレスレット:2、テナント、ハープ、ライオン) 紀元前721年~紀元前705年 (左側) 写真だとわかりにくいが、屋外のレリーフで、かなり大きく、高さ5メートル。 巨大な男性像は、怒り狂うライオンの首を絞めている。伝説の英雄ギルガメシュとも。一つずつ観ていくと、時間が足りなくなるので、ドゥノン翼のモナ・リザを観に行くことに。
アポロンのギャラリー
ルイ14世が改装し、シャルル・ルブランが装飾。 太陽神アポロンを主題にした豪華絢爛な装飾を構想したが、宮廷がヴェルサイユ宮殿に移ると、未完のままとなった。 19世紀後半の大々的な改修、ドラクロワたちによって仕上げられた。ルーヴル宮殿だったこともあり、天窓で光を取り入れ、天井まで装飾してある。
人の流れが、モナ・リザに向かってる気がする。
グランド・ギャラリー
1610年に造られた全長460mの大回廊。
両側に立派なイタリア絵画(1250年~1800年)があるけど、立ち止まる人もほとんどなく、人々は前に動く。
見えてきた。ここから行列になり、少しずつ、前に進む。
モナリザとして知られるフランチェスコ・デル・ジョコンドの妻、リサ・ゲラルディーニの肖像
Portrait of Lisa Gherardini, known as the Mona Lisa in the Salle des États 1503ー1519 レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)
縦77cm 横53cm で小さいが、1500年頃の肖像画としては大きいそうだ。 モナ・リザと呼ばれているが、名称は「リザ・ゲラルディーニの肖像」である。モナはマドンナ(私の貴婦人)の意味。 フランチェスコ・デル・ジョコンドが、レオナルド・ダ・ヴィンチに、妻のリザを画かせた肖像画(1503年次男の出産祝い)。 レオナルドは、制作代金を受け取っておらず、フランス王のフランソワ1世が4,000エキュで購入し、宮殿に飾った。 ルイ14世がヴェルサイユ宮殿へ移し、1789年のフランス革命で国民の財産となりルーヴル美術館へ移された。 2005年、ドイツのハイデルベルク大学図書館の専門家が、大学蔵書の余白部分に、「レオナルドがリザ・デル・ジョコンドの肖像画を制作中」と、フィレンツェの役人アゴスティーノ・ヴェスプッチが1503年に記したラテン語の書き込みを発見。モナ・リザのモデルは誰なのかが、2005年の発見で明確になり、絵の名称も変更された。
リザは1479年生まれなので、肖像画は24歳の時。5人の子に恵まれ、平穏で普通の中流階級の暮しを送った旧フィレンツェ家の女性だった。初めて知った。
1503年の書き込み。レオナルドがリザ・デル・ジョコンドの肖像画を制作していると書かれている
フランス絵画(1780年~1850年)
部屋の中央の左右に、ジャック=ルイ・ダヴィッド(1748-1825)の大作がある。
大きすぎて、写真に収まらない。
左側は、1789年のフランス革命の年に画かれたもの。
ブルトゥス邸に息子たちの遺骸を運ぶ刑吏たちLes licteurs rapportent à Brutus les corps de ses fils.1789 高さ3.23メートル、幅4.22メートルの大きな絵画。サロン・ド・パリに出展され、ルイ16世のコレクションに。 紀元前509年、ローマ帝国のルキウス・ユニウス・ブルトゥス(左下の男)は、ローマ王を追放し、共和制を樹立した。 しかし、息子達が王政復古を目指し反乱したため処刑し、遺体が自宅に戻る場面(泣き叫ぶ妻)が画かれている。フランス革命は、封建的な身分制や領主制を排除し、法の下の平等、経済的自由、人民主権、権力分立など資本主義社会を獲得した。
激動の年に、政治活動もしていたジャック=ルイ・ダヴィッドは、共和制を守るため非情な決断をしたブルトゥスを描かずにはいられなかったのだろう。
「個人的感情や家族愛を超えて、国家や公共の利益を優先するというフランス革命の理念」を伝え、「個人が社会や国家のために果たすべき役割と犠牲とは何か」を投げかけている。
なお、シェークスピアの戯曲「ジュリアス・シーザー」の主人公ブルータスは、ブルトゥスの末裔。
右側は、ナポレオンの首席画家に任命され、1807年に画いた有名な絵画。 1804年12月2日 皇帝ナポレオン1世の戴冠式と皇后ジョゼフィーヌの戴冠式、パリのノートルダム大聖堂 高さ6.21メートル。幅9.79 mの巨大な絵画。 ナポレオンは、1804年、国会の議決と国民投票(民主主義)を経て、皇帝の地位についた。 「人民の皇帝」として戴冠式は、教皇から王冠を戴く従来方式ではなく、ナポレオンが自ら王冠をかぶった。 政治にあたって、閣僚や大臣には政治家、官僚、学者を登用し、軍人は国防大臣だけとした。 民法、商法、民事訴訟法、刑法、犯罪法など近代的法典の基礎を定め、各国(日本も)に影響を与えた。 フランスでは、改正されつつ現在に至るまで、「ナポレオン法典」が現行法である。 ナポレオンは、フランス革命に干渉してくる諸国と戦争で勝利を収め、支配下に置いた(英国、ロシア、オスマン帝国以外) 1805年、ネルソン提督率いるイギリス海軍に対し、トラファルガーの海戦で敗北。イギリス上陸作戦は失敗。 1812年のロシア遠征失敗後、周辺国軍に包囲され失脚。しかし国王の政治が民衆の不満を買い、1815年ナポレオンは復位する。 しかし、イギリス・プロイセンの連合軍にワーテルローの戦いで完敗。幽閉されたセントヘレナ島で1821年死去。 横たわるオダリスク "La Grande Odalisque" 1814 ドミニク・アングル イタリアのナポリ王妃から発注されたが渡らず、1819年のサロン・ド・パリに出展。 全裸の美女が背中越しに振り返る古典的な構図だが、背中と腕が伸びすぎと批判された。 カメラ登場の時代に、絵画しか出来ない理想を求め、デフォルメを試みたという。 ジャック=ルイ・ダヴィッドの弟子。 ランス大聖堂でのシャルル7世の戴冠式のジャンヌ・ダルク "Jeanne d’Arc au sacre du roi Charles VII, dans la cathédrale de Reims" 1854年 ドミニク・アングル フランス王の戴冠は、フランク王国の初代国王クローヴィスが洗礼を受けた、ランス大聖堂で行われた。 王権の根拠を、ランスの聖油で聖別されることで、クローヴィスの後継者となった。 トロワ条約で、シャルル6世の死後は、英国のヘンリー5世が王位継承となっていたが、ジャンヌ・ダルクの活躍で、イングランド軍をランスから撤退させ、シャルル7世をランス大聖堂で戴冠させることが出来た。1830年7月28日民衆を導く自由の女神 Le 28 juillet 1830. La Liberté guidant le peuple 1830年ウジェーヌ・ドラクロワ 1815年の王政復古で、ルイ18世はフランス革命の成果を無視し革命以前の状態にし、弟シャルル10世も言論を弾圧した。 1830年7月、学生、労働者など市民が三色旗を掲げ、ルーヴル宮殿を占領、シャルル10世は国外逃亡した(フランス7月革命)。 復古王政は崩壊。栄光の3日間とよばれる市民革命は、ベルギー、ポーランド、イタリアの独立・革命運動に影響を与えた。 民衆を導く女性はマリアンヌ(フランスのシンボル。自由の女神)。シルクハット帽と銃を手にしているのはドラクロワ本人。 ジャンヌ・ダルクとマリアンヌ(自由の女神)は、フランスの歴史・文化を象徴する女性だね。 ギリシャ文明
サモトラケのニケ(勝利の女神) Victoire de Samothrace 紀元前200年~紀元前175年
1863年、フランスの外交官がエーゲ海東北のサモトラケ島で、大理石の彫像と118点の破片を見つけた。 これらの破片が、船首に立つ勝利の女神ニケ(ギリシャ神話)で、海戦の勝利を記念して制作された彫刻と言われている。 ここで、窓から外を見やる。ずいぶん館内を歩いたはずだ。入口のピラミッドが遠くに見える。 ルーヴル美術館は、途方もなく長く、広い。 向こう側に見えるリシュリュー翼の建物には、行けそうもない。あと観ていないのは、ミロのヴィーナスと…。再びシュリー翼に戻る。
ミロのヴィーナス Vénus de Milo 紀元前150年~紀元前125年
ギリシャのメロス島で1820年に発見され、フランスがトルコ政府から買い上げて国王ルイ18世に献上後、美術館に寄贈された。 ギリシャ神話の女神アフロディーテの大理石像と考えられている。 1964年に日本の国立西洋美術館、京都市美術館で特別展示された。 エジプト文明タニスの大スフィンクス 発見場所:タニス=サン・エル・ハガル(下エジプト東デルタ)
スフィンクスは、ホルス神を表すライオンの体と、王の頭である人間の頭を持っている。 悪霊が神々に害を及ぼすのを防ぐために、神聖な場所の入り口に置かれた。 アメンエムハト2世(第12王朝、紀元前1898-1866)、メルネプタ王(第19王朝、紀元前1213-1203)、ショシェンク1世(第22王朝、紀元前945-924)の名前が刻まれていた。 ナポレオンのエジプト遠征に同行した調査団が発見。 ルーヴル美術館のHPの検索 38万点(展示はその1割)もの膨大な収集品の中から、調べたい作品を探す場合、「名前で探す」方法と、「展示場所で探す」方法と大きく分かれる。名前で探す方法は、少し使いにくいと感じた。 美術館訪問後に、作品を調べるには、展示場所で探す方法が見つけやすいかも知れない。 具体的には、地図から部屋番号をクリックすると、右側に展示品の画像が出てくるので、それをクリックすると詳細情報が得られる。美術館を2箇所回ったが、足が棒のようになった。 時刻は15時。 オランジュリー美術館のモネの睡蓮やサント・シャペルのステンドグラスも行きたいところであったが、パリ市街を上空から展望していなかった。
この噴水の先に、遠くに見える建物が、次の目的地になった。