モン・サン・ミシェル(Mont Saint-Michel)。
サン・ミシェルは、フランス語で「聖ミカエル」のこと。
ミッシェルとはねるのは、Michelの英語読みの発音なので、気をつけよう。
「ミ・カ・エル」を直訳すれば「神に似たものは誰?」(mî疑問詞「誰」 + kə「~のような」 + hā ’ēl「神」)という意味になる。
カトリック教会では「大天使 聖ミカエル」と呼ばれる。
右手に剣を持ち、悪魔や邪悪な力と戦う守護者として、山頂や建物の頂上にミカエルの像が置かれた。
また、ジャンヌ・ダルクに神の啓示を与えたとされる。
708年、オベール司教の夢の中に、聖ミシェルが現れ「私を祀る祭壇をつくれ」とのお告げが繰り返され、モン(岩の島)に祭壇の洞窟を造ったのが始まり。
その後、修道院が10世紀から16世紀にかけて造られた。
一方で、オベール司教の頭蓋骨(聖ミシェルが司教の額に手を当てた際にできた傷がある)が「聖遺物」とされ、頭痛を治すという信仰や、聖ミカエルが左手に持つ秤で、最後の審判の日に人々の魂の重さを測り天国に行くかを決めるという信仰(写真の左手に秤。トレーに魂を乗せて測る)、それに「聖遺物」を目指す多くの巡礼者達がこの地を訪れ、賑わい、寄付によって美しく飾られるようになった。
ノルマンディの領主達も、キリスト教社会の重要な位置を占めるものとして庇護した。
干潮の時は地続きで島に渡れるが、途中で潮が満ちるスピードが速く、命を落とす人が絶えなかった。
現地のフランス人ガイドを、添乗員が翻訳しつつ案内が始まった。
島を囲む通路から見たところ。満潮時刻。橋をわたった対岸にホテルなどがある。
ドーバー海峡の対岸は、英国になる。 英仏100年戦争の際には、イングランド軍が接近。ここは要塞となり、見張りの順路になった。
通路から見上げたところ。 1日に4回繰り返す急速な潮の干満は、敵の侵入も防いだ。
島内で最初に通るのが村。石畳の参道に店が建ち並ぶ。 これは、狭い通路。すれ違いも出来ず、閉所恐怖症の私は、絶対に通らない。
1888年創業のラ・メール・プラールのショップ。巡礼者のために栄養価の高いオムレツを考案。 いまは、サブレがモン・サン・ミシェル定番のお土産。
いよいよ修道院の入口。 自動小銃を持ったフランス軍兵士6人が我々を追い抜き、手荷物の保安検査のゲートに向かった。 間近に見る、銃に緊張する。怖いね。 ロマネスク建築様式の後に、ゴシック建築様式で改築されている。
多くの巡礼者達が上った階段。キツいね。
右側の建物で雨水を貯留。消防用の水栓。
大階段を上がると、西のテラスに出る。 ずいぶん上まで来た。潮が引きつつあるね。正面は河川で、海に合流する。
修道院の上は、教会になっている。
建設に関わった石工達が彫った識別用の印。日本のお城も同じだ。
模型が置いてあった。北側(イングランド側)から見たところ。攻め込むのは無理。 岩山の上に、高さ80メートルまで、よく築き上げたものだ。石材は舟で運んだとのこと。
修道院の教会 15~16世紀のゴシック建築様式で、窓が多く、明るい。 (11世紀の教会は何度か崩壊し、修復された) この屋根の上に、最も高い尖塔があり、シンボルになっている。
この聖堂(祭壇)に、聖ミカエルがいる。15世紀に造られた。 モン・サン・ミシェル=聖ミカエルの山(岩の島) 聖ミカエルの命令を果たした。
聖ミカエルが右手を指し、「あの岩山に祭壇を造れ」とオベール司教に命じている様子。 聖ミカエルの左手が、司教の頭蓋骨に触れ、傷跡が「聖遺物」になって保存されているようだ。
修道院の回廊と中庭。 修道僧達が、礼拝と瞑想した場。天と地をつなぐ空間。教会の北側にある。
柱を少しずらす技法。彫刻に聖書の場面が描かれ、美しい。
修道士達の食堂 会話は許されず、ジェスチャーで意思を伝えた。 アーチの天井は、重量を抑えるため木製。回廊の東側に位置する。
迎賓の間 多くのフランス国王や巡礼に訪れた貴賓を、修道院長がもてなした場所。 装飾品は略奪されたが、天井は優雅だ。食堂の真下に位置する。
地下礼拝堂 主祭壇の真下にある。修道院で裁きを受ける人の控えの間として使われた。
修道院の聖堂を支える太い柱。 ロマネスク様式の建築の重さに耐えきれず1421年に崩壊したため、古い柱の回りを強化して太くした。
大車輪 中に数名が入り、車輪を回転させて、石材などの建築材料を、下から引き上げた。 平時には、食料などの物資を運ぶのに使ったこともあるそうだ。 大車輪から、見下ろしたところ。壁に沿ってレールが見える。 石材や物資を、ケーブルカーみたいに引き上げた。
11世紀に建てられた礼拝堂が残っている。
騎士の間 修道士達が写本や彩色した仕事部屋。騎士は、聖ミカエル騎士団に因んだ名前。 回廊の真下に位置する。 階下の貯蔵庫との連絡口
帰りは、城壁の上の通路を通る。 高さ20メートルの壁は砂の上に建てられた。砂上の楼閣だが、頑強だ。
入口の階段が見える。
すっかり引き潮になっていた。海水が引いたとこに人が立っている。1064年、ノルマンディー公ギョーム二世(1066年12月ウイリアム征服王)とハロルド(1066年1月ハロルド二世)は、河川地帯を渡るために歩いていた。目的や内容は不明だ。2年後に2人は戦いウイリアム征服王が、イングランド王国とノルマンディー公国を支配することになる。
潮の干満で現れる島に、千年かけて、信者達が作り上げた修道院と教会。 1979年、世界遺産に登録された。
現地のフランス人ガイドを、添乗員が翻訳しつつ案内が始まった。
島を囲む通路から見たところ。満潮時刻。橋をわたった対岸にホテルなどがある。
ドーバー海峡の対岸は、英国になる。 英仏100年戦争の際には、イングランド軍が接近。ここは要塞となり、見張りの順路になった。
通路から見上げたところ。 1日に4回繰り返す急速な潮の干満は、敵の侵入も防いだ。
島内で最初に通るのが村。石畳の参道に店が建ち並ぶ。 これは、狭い通路。すれ違いも出来ず、閉所恐怖症の私は、絶対に通らない。
1888年創業のラ・メール・プラールのショップ。巡礼者のために栄養価の高いオムレツを考案。 いまは、サブレがモン・サン・ミシェル定番のお土産。
いよいよ修道院の入口。 自動小銃を持ったフランス軍兵士6人が我々を追い抜き、手荷物の保安検査のゲートに向かった。 間近に見る、銃に緊張する。怖いね。 ロマネスク建築様式の後に、ゴシック建築様式で改築されている。
多くの巡礼者達が上った階段。キツいね。
右側の建物で雨水を貯留。消防用の水栓。
大階段を上がると、西のテラスに出る。 ずいぶん上まで来た。潮が引きつつあるね。正面は河川で、海に合流する。
修道院の上は、教会になっている。
建設に関わった石工達が彫った識別用の印。日本のお城も同じだ。
模型が置いてあった。北側(イングランド側)から見たところ。攻め込むのは無理。 岩山の上に、高さ80メートルまで、よく築き上げたものだ。石材は舟で運んだとのこと。
修道院の教会 15~16世紀のゴシック建築様式で、窓が多く、明るい。 (11世紀の教会は何度か崩壊し、修復された) この屋根の上に、最も高い尖塔があり、シンボルになっている。
この聖堂(祭壇)に、聖ミカエルがいる。15世紀に造られた。 モン・サン・ミシェル=聖ミカエルの山(岩の島) 聖ミカエルの命令を果たした。
聖ミカエルが右手を指し、「あの岩山に祭壇を造れ」とオベール司教に命じている様子。 聖ミカエルの左手が、司教の頭蓋骨に触れ、傷跡が「聖遺物」になって保存されているようだ。
修道院の回廊と中庭。 修道僧達が、礼拝と瞑想した場。天と地をつなぐ空間。教会の北側にある。
柱を少しずらす技法。彫刻に聖書の場面が描かれ、美しい。
修道士達の食堂 会話は許されず、ジェスチャーで意思を伝えた。 アーチの天井は、重量を抑えるため木製。回廊の東側に位置する。
迎賓の間 多くのフランス国王や巡礼に訪れた貴賓を、修道院長がもてなした場所。 装飾品は略奪されたが、天井は優雅だ。食堂の真下に位置する。
地下礼拝堂 主祭壇の真下にある。修道院で裁きを受ける人の控えの間として使われた。
修道院の聖堂を支える太い柱。 ロマネスク様式の建築の重さに耐えきれず1421年に崩壊したため、古い柱の回りを強化して太くした。
大車輪 中に数名が入り、車輪を回転させて、石材などの建築材料を、下から引き上げた。 平時には、食料などの物資を運ぶのに使ったこともあるそうだ。 大車輪から、見下ろしたところ。壁に沿ってレールが見える。 石材や物資を、ケーブルカーみたいに引き上げた。
11世紀に建てられた礼拝堂が残っている。
騎士の間 修道士達が写本や彩色した仕事部屋。騎士は、聖ミカエル騎士団に因んだ名前。 回廊の真下に位置する。 階下の貯蔵庫との連絡口
帰りは、城壁の上の通路を通る。 高さ20メートルの壁は砂の上に建てられた。砂上の楼閣だが、頑強だ。
入口の階段が見える。
すっかり引き潮になっていた。海水が引いたとこに人が立っている。1064年、ノルマンディー公ギョーム二世(1066年12月ウイリアム征服王)とハロルド(1066年1月ハロルド二世)は、河川地帯を渡るために歩いていた。目的や内容は不明だ。2年後に2人は戦いウイリアム征服王が、イングランド王国とノルマンディー公国を支配することになる。
潮の干満で現れる島に、千年かけて、信者達が作り上げた修道院と教会。 1979年、世界遺産に登録された。