「いらっしゃいませ。」「聖ジャンヌ・ダルク教会」と書いてある。
【イングランド王がフランス王に】
1066年にイングランド王となったウイリアム王(ノルマンディー公)の野望は、いつかフランス王になること。
歴代のイングランド王は、政略結婚と侵攻で北部フランスを占領。フランス国内は権力争いで内紛状態だった。
1420年のトロワ条約で「フランス国王シャルル6世の死後に、イングランド国王ヘンリー5世がその後継者になる」とされた。
1422年ヘンリー5世とシャルル6世の死後、ヘンリー5世の息子がフランス王アンリ2世兼イングランド王ヘンリー6世に。野望は実現した。
<図は、世界の歴史まっぷからお借りしました>
【ジャンヌダルクの功績】
1412年、ジャンヌは、フランス東部ドンレミで、農夫の娘として生まれた。
1425年、一人で歩いていたジャンヌ(13才)は、「大天使ミカエル達が現れ、イングランド軍を駆逐して、王太子シャルルをランスへと連れていき、フランス王位に就かしめよ」という「声」を聴いた。
※フランス国王は、イングランド王ではなく、シャルル6世の子がシャルル7世として継ぐべし。
神の啓示を受けたとして、説得、実績、信用を得てフランス軍に従軍し、イングランドとの百年戦争の節目となったオルレアンの闘いで、常識を破る戦法で奇跡的勝利を収め、各都市をフランスに取り戻し、神の啓示通り、フランス王シャルル7世の戴冠を成功させた。
1429年、17才のジャンヌは男装し、敵であるブルゴーニュ公国の占領地を通りながら、のちのシャルル7世の王宮があるシノンへ向かった。 ジャンヌは、作戦会議で優れた戦略を主張し奇跡的勝利をおさめ、劣勢を逆転した。包囲されたオルレアンでは、包囲し補給路を断ち講話する従来戦法に対し、負傷しながら常識外の各個撃破攻撃で9日間で大勝利を収めた。 オルレアンでの勝利以降、多数の味方が加勢しイングランド軍は撤退。同年7月、ランスのノートルダム大聖堂で、シャルル7世の戴冠式が執り行われた。【ルーアンでの裁判と処刑】
その後、ジャンヌはブルゴーニュ公国軍の捕虜となり、身代金と引き換えに敵国イングランドへ引き渡された。 多くの歴史家が、シャルル7世がジャンヌの身柄引き渡しに介入せず、見殺しにしたことを非難している。 イングランドは、シャルル7世のフランス王位継承に異議を唱えており、協力者のジャンヌがキリスト教の異端者であることが必要だった。 1431年5月、イギリス占領下のルーアンで、異端の判決を受けた19歳のジャンヌは1万人の前で火あぶりの刑。ルーアンで生涯を終えた。 1431年12月、パリ・ノートルダム大聖堂で、イングランド王ヘンリー6世は、フランス王アンリ2世として戴冠式を行った。※フランスの国と王のために戦い大成果を上げたのに、金で身柄を敵のイングランドに渡され、不当裁判で死刑になる非業な死だ。
【無実、殉教、守護聖人】
当時の裁判記録には、裁判の不当性や、ジャンヌの聡明な思考力が記録されており、後の多くの作品を生んだ。 ジャンヌの死から25年後、ローマ教皇の命でジャンヌの復権裁判が行われ、ジャンヌの無実と殉教が宣言された。フランスを救い、シャルル7世の戴冠に貢献したことから、ジャンヌは西洋史上でも有名な人物の一人となった。
ナポレオン1世以降、フランスでは派閥を問わず、多くの政治家たちがジャンヌを崇敬しているといわれる。世界的に著名な作家、映画監督、作曲家たちがジャンヌを主題とした作品を制作している。
その後ジャンヌは1909年に列福、1920年には列聖され、フランスの守護聖人となった。(以上、wikiより)
【聖ジャンヌダルク教会】
1979年に建立された。高さを抑えるためか、降りていく感じに設計されている。
ステンドグラス
16世紀に造られたもの。教会が立地するヴィエ・マルシェ広場で、高い柱に縛りつけられたジャンヌの姿が描かれている。
ジャンヌの彫像
教会の入口左にひっそりとある。処刑される直前の姿だろうか、勇ましい姿ではない。
ジャンヌが処刑された場所から数インチのところに設置されている。
合掌。
教会の近くに、小さなショップとトイレがあった。
店先に並ぶルーアンの絵はがきを4枚購入した。1枚0.4ユーロ。64円。
ホテルのチップ用に、ユーロ紙幣の両替が必要だった。
会計の際、「Japanese?」とお店の人に声をかけられた。
「Yes」と答えると、「ありがとうございます。」と日本語で言われた。
私も「ありがとうございます。」に続けて「メルシー。」と言って店を出た。
さて、次の目的地は、これも、大天使ミカエルのお告げで出来た場所である。