【石狩挽歌記念碑】
なかにし礼の実家があった小樽市。
青山氏の鰊御殿(貴賓館)に石狩挽歌記念碑があり、なかにし礼直筆の歌詞が彫られている。
1975年のヒット曲だが、記念碑建立が22年後の1997年になった理由は、1996年に兄の中西正一(森田童子の父)が72歳で死去し、ようやく記念碑建立に応じたと、なかにしは『兄弟』に記している。
【石狩挽歌は中西一家の実体験だった】
兄の正一が、小樽の実家を担保に借金して増毛の網元からニシン漁の権利を3日間借りた。
最終日の1947年3月22日の未明。魚が入らず失敗したと中西家全員があきらめたときに奇跡が起きて、遠くの海から大量のニシンが、網に押し寄せる奇跡が起きた。兄23歳、礼8歳の時だった。
海猫が鳴くからニシンが来ると、ヤン衆(ニシン漁の出稼ぎ漁師)が騒ぐ。
雪に埋もれた番屋の隅で、私は夜通し飯を炊く。
燃えろかがり火 朝里の浜に 海が銀色ニシンの色よ。
ソーラン節に頬そめながら 私は大量の網を曳く。
【ニシン漁の衰退】 ニシン漁は1910年以降、北海道西側沿岸で栄え、漁で財を成した網元によるニシン御殿が各地に建ったが、1955年以降、すっかり獲れなくなってしまった。 挽歌とは、死を悼む歌。石狩地方のニシン漁が途絶えたことを歌う悲しい歌なのだった。 あれからニシンはどこへ行ったやら オタモイ岬のニシン御殿も今じゃさびれて オンボロロ オンボロボーロロー沖を通るは笠戸丸 私は涙でニシン曇りの空を見る 【増毛町の朱文別の浜】 増毛は、アイヌ語のマシュケ(カモメの多いところ)が由来。 77年前、中西正一は朱文別のニシン漁で1ヶ統(幅20メートル、長さ60メートル)の権利を3日間買った。増毛には100ヶ統以上あり、ニシンが入ったとしても百分の一の確率。 一攫千金のギャンブルだ。鰊の大群が押し寄せる群来(くき)の時は、明け方の海が乳色・銀色に染まる。 しかし、今では、海岸浸食から守る離岸堤が沖合に並び、海岸にはテトラポット。もはやニシン漁が行われることはなさそうだ。【日本最北の酒蔵】
増毛にある国稀(くにまれ)酒造。日本最北にある酒蔵。
清酒も美味しいが、酒粕焼酎「泰蔵」も人気だ。
【国稀の蔵元限定商品】 国稀 酒粕焼酎泰蔵 木樽貯蔵(30度) スコッチウイスキーのような香りと琥珀色が飲んでて楽しい。 【ニシン丼】 石狩市の道の駅厚田で頂いた。 【恩納村のお土産】
石狩市は沖縄県恩納村と友好都市。懐かしいシークワーサーポン酢やじゅーしぃに出会えた。
【旧花田家番屋】
増毛の北に位置する小平(おびら)町にある。アイヌ語のオッペが町名の由来。 「道の駅おびらニシン番屋」に隣接する国指定重要無形文化財が花田家のニシン番屋。 北海道最大の規模で、往時は200人の雇い人が生活できた。
夜通し飯を炊く。
漁の道具も展示されている。
ニシンを背負うもっこ。 小さいのは子供用。
【北海道の鰊番屋】 【礼文島の鰊番屋の思い出】
私の最初の北海道の宿は、1977年9月24日(土)礼文島の桃岩荘YH。ニシン番屋だった。 前日、羽田17:15発の全日空で千歳に、21:10札幌発の夜行で稚内に早朝の6:25到着。 夜が明け始め車窓から見えた景色は、森林も家もなく大平原と砂丘。 8:10発の定期観光バス3時間コースで、最北端の地、稚内公園、ノシャップ岬を巡った後に、稚内12:40発のフェリーで礼文島15:10着。迎えのジープに乗り、海岸沿いのニシン番屋を利用したユースホステルに16:20到着した。宿泊者は50名程だった(当時の旅日記より)。