名護市の郊外の古い建物に、沖縄の古民具が2万点以上展示されています。
消防士だった真嘉比(まかび)さんが退職後に、粗大ごみの古民具を見つけ、これは残すべきと集めたのがきっかけで、ほとんどはフリーマーケットなどで購入した。入場料は500円。
このミシンは、昔、もぐって遊んだ記憶がある。
所狭しとたくさんのものが並べてある。
囲炉裏のそばには三線の竿が吊るしてある。新聞には真嘉比さんが個人で開いた経緯が書いてあった。建物も自分で建てたのが、すごいね。
別館には、沖縄戦に関する新聞記事などがある。
図書館などで戦時中の膨大な新聞記事を読むのは大変だけど、真嘉比さんの工夫は、沖縄戦について、要点を読みやすく展示していること。
沖縄戦を、内地の新聞記事から集めている。地上戦が始まった沖縄では、新聞発行できないのだろう。米軍が上陸してきたら一体どうなるのかと、内地の人も関心が高かった筈だ。
1944年10月10日、那覇市は830機の敵機が約8時間にわたり無差別爆劇を受けた。
昭和天皇に報告したところ、「被害を受けた方を心配された」ので、改めて「救護など善後策」を報告したとあります。
1945年3月26日 慶良間諸島に米軍が上陸。後方から米軍を狙うことが察知されていた。
沖縄戦では、中学生以上が学徒隊として駆り出され1000人以上が犠牲となった。
1945年4月1日に、沖縄本島に米軍上陸。
1945年4月16日の中部日本新聞沖縄の女は泣かず1000隻以上の戦艦が、1日に6000発の艦砲射撃を沖縄に浴びせている。それでも母と姉に4人の弟妹が戦っている。
1945年5月27日の毎日新聞女学生も砲弾運び戦う沖縄県民神雷特攻隊の攻撃続く
1945年6月14日の朝日新聞特攻隊の出撃
1945年7月30日 毎日新聞手榴弾を抱き女も敵陣へ 涙ぐましい県民の協力
1945年8月5日 毎日新聞沖縄戦の終結沖縄戦の指揮官達が自決して昇進陸軍の牛島中将は、大将に海軍の太田少将は、中将に
太田中将は、有名な「沖縄県民 かく戦えり」の電文を残した方です。那覇空港近くの地下に海軍が壕を設置し、戦った施設と、知事に代わって内地に報告した電報などが、海軍壕公園として公開されており、ぜひ見て欲しいです。
沖縄県立平和祈念資料館や沖縄県立博物館にもない情報が、ここにあった。
1人の個人が自費で、沖縄の歴史を伝えようと努力していることが、わかった。
消防士だった真嘉比(まかび)さんが退職後に、粗大ごみの古民具を見つけ、これは残すべきと集めたのがきっかけで、ほとんどはフリーマーケットなどで購入した。入場料は500円。
このミシンは、昔、もぐって遊んだ記憶がある。
所狭しとたくさんのものが並べてある。
囲炉裏のそばには三線の竿が吊るしてある。新聞には真嘉比さんが個人で開いた経緯が書いてあった。建物も自分で建てたのが、すごいね。
別館には、沖縄戦に関する新聞記事などがある。
図書館などで戦時中の膨大な新聞記事を読むのは大変だけど、真嘉比さんの工夫は、沖縄戦について、要点を読みやすく展示していること。
沖縄戦を、内地の新聞記事から集めている。地上戦が始まった沖縄では、新聞発行できないのだろう。米軍が上陸してきたら一体どうなるのかと、内地の人も関心が高かった筈だ。
1944年10月10日、那覇市は830機の敵機が約8時間にわたり無差別爆劇を受けた。
昭和天皇に報告したところ、「被害を受けた方を心配された」ので、改めて「救護など善後策」を報告したとあります。
1945年3月26日 慶良間諸島に米軍が上陸。後方から米軍を狙うことが察知されていた。
沖縄戦では、中学生以上が学徒隊として駆り出され1000人以上が犠牲となった。
1945年4月1日に、沖縄本島に米軍上陸。
1945年4月16日の中部日本新聞沖縄の女は泣かず1000隻以上の戦艦が、1日に6000発の艦砲射撃を沖縄に浴びせている。それでも母と姉に4人の弟妹が戦っている。
1945年5月27日の毎日新聞女学生も砲弾運び戦う沖縄県民神雷特攻隊の攻撃続く
1945年6月14日の朝日新聞特攻隊の出撃
1945年7月30日 毎日新聞手榴弾を抱き女も敵陣へ 涙ぐましい県民の協力
1945年8月5日 毎日新聞沖縄戦の終結沖縄戦の指揮官達が自決して昇進陸軍の牛島中将は、大将に海軍の太田少将は、中将に
太田中将は、有名な「沖縄県民 かく戦えり」の電文を残した方です。那覇空港近くの地下に海軍が壕を設置し、戦った施設と、知事に代わって内地に報告した電報などが、海軍壕公園として公開されており、ぜひ見て欲しいです。
沖縄県立平和祈念資料館や沖縄県立博物館にもない情報が、ここにあった。
1人の個人が自費で、沖縄の歴史を伝えようと努力していることが、わかった。